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後鳥羽上皇の「呪い」なのか?北条時房(トキューサ)の死因はなに?【承久の乱】

大河ドラマ

どうも。しのぶです。

蹴鞠をとおして
後鳥羽上皇と仲良くなった
北条時房(トキューサ)

しかし、これから彼を待つのは
承久の乱です。

北条時房(トキューサ)の死因は
後鳥羽上皇の呪いってホント?!

2人のたどる修羅の道をみてみましょう。

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トキューサは美男で蹴鞠が得意な「ヤリ手」?!

時房は『吾妻鏡』によると
蹴鞠という当時の
上流階級で流行のスポーツができ


人脈をつくるのも上手い
「スポーツ万能イケイケ男子」
であったことがわかります。

瀬戸康史さんTwitter


美男で蹴鞠が特技なゆえに、
源頼家の側近にも選ばれました。

しかし、源頼家の暗殺後は
あっさりと北条氏の中枢の一人
として活躍をしています。

蹴鞠をきっかけに
頼家側近にはいりこみ

その人脈を生かして
比企家側の人間と仲良くなるも


並行して、比企の動きを
北条一族にしっかり
流していたと考えられます。

後鳥羽上皇にも
得意の蹴鞠を披露して
気に入られています。

御所にしばらく留まるように
後鳥羽上皇から命じられ、
蹴鞠の会にも招待されています。

「スポーツ万能の美男」
は後鳥羽上皇の目にも
印象よく映ったのでしょう。

時房はそのチャンスを活かして
京都の公家らとの人脈を
つくることができました。

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その実績で、実朝暗殺後に
後継者となる将軍を誰にするか
交渉するために

朝廷(京都)に派遣されたのは
ほかでもない、時房でした。


「スポーツ万能の美男」は
京都で得た人脈を活かして
朝廷と交渉を行ったのち、

第4代鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)
となる三寅(のちの藤原頼経)を
鎌倉へ連れてくることに成功
しています。

鎌倉へきた当時はまだ2歳だった三寅

承久の乱での北条時房の活躍とは?

承久3年(1221年)5月14日、
後鳥羽上皇が鎌倉幕府にたいして
執権・北条義時 討伐の宣旨を
出しました。

慈円僧正の似顔絵をもつ後鳥羽上皇


後鳥羽上皇は
新興の鎌倉幕府のせいで

皇族、公卿の既存の荘園収入が
次々に絶たれてゆくことに
激怒していました。

さらに、朝廷の莫大な収入が
失われたのに朝廷の権威ばかりを

せがんでは借りていく
北条義時を許せませんでした。

鎌倉幕府を倒し、朝廷の復権を
目指したこの後鳥羽上皇の戦は
誰もが学校で習う
「承久の乱」です。

北条時房は、承久の乱では
鎌倉幕府の主力軍として
東海道を北条泰時と進軍しました。

6月13日、上皇軍と幕府軍は
宇治川で合戦となります。

上皇軍は、防衛線である宇治川を
幕府軍が渡らぬように
橋を落として、雨のように矢を
浴びせました。


幕府軍は、矢の雨と
雨で増水した宇治川に手こずり、
13日は退却したものの、
14日には宇治川を渡ることに
成功します。

14日の夜には幕府軍は洛中へ
攻めこみ、火を放ちました。

承久の乱は、幕府の勝利。

時房は幕府の主力軍として
おおいに力をふるったのです。

北条時房を描いた絵
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上皇様は承久の乱でどうなった?

7月にはいり、後鳥羽上皇は
隠岐の島へ配流されました。


皇族が武士に断罪され
配流になるのは日本史上で
初めてのことでした。

(後鳥羽院は隠岐に流される直前に
出家して法皇となりました)

時房はどんな気持ちでそれを
見ていたのでしょうか。

配流から15年以上たった
嘉禎3年(1237年)になって、
後鳥羽上皇(院)は置文を記したと
いわれます。

「万一にもこの世の妄念にひかれて
 私が魔物となることがあれば
 この世に災いをなすだろう。

我が子孫が世をとる(天皇になる)

ことがあれば
それは全て我が力によるものである。


もし我が子孫が世をとることあれば
我が菩提を弔うように」

後鳥羽上皇は、その後も
京都へかえることを鎌倉幕府に
許されることはなく、

隠岐の島から一度も
出ることがないまま
1239年2月、崩御しました。

享年は60歳でした。

後鳥羽院の大原稜
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時房は「六波羅探題 南方」で活躍も?

時房は、承久の乱の後も
京都の六波羅にとどまり、
かの有名な
「六波羅探題」を設置しました。


朝廷の監視や西国の統率のため、
京都・六波羅の
平清盛の屋敷を改装して
「六波羅探題」としたのです。

時房は、「六波羅探題 南方」
に就任し朝廷の監視をすることに。

なお、北条泰時は
「六波羅探題 北方」となり
北方のほうが格上です。

時房は、結局は泰時には
キャリアで一生、勝てないまま
よき補佐役として終わります。

時房の死は、後鳥羽上皇の「呪い」が原因?!

時房は、病死とされており
その死について「吾妻鏡」では
特記すべきことは
記されていません。


しかし、当時の京都の公卿であった
平経高の日記『平戸記』には

北条時房の死は
『後鳥羽上皇(院)の
 怨霊が原因』と書いています。


北条泰時と三浦義村の死も、
「後鳥羽上皇の呪い」とも
書いています。

後鳥羽上皇は死後、怨霊と化したと
見られていたむきが
京都の公卿のあいだであったのです。

百人一首の札「後鳥羽院」

【人もをし 人も恨めし あぢきなく 
 世を思ふゆゑに もの思ふ身は】


スポーツ万能で
人脈をつくるのも上手い
「イケイケ男子」北条時房と


承久の乱をおこし
隠岐の島で配流のまま
薨去した後鳥羽上皇


蹴鞠をとおして交流した2人は

承久の乱で戦い、その後は
二度と会うことはありませんでした。

時房は隠岐の島に
配流される後鳥羽上皇を
どのような気持ちで
見つめていたでしょうか?


また、時房の死因は
後鳥羽上皇の呪いでしょうか?

皆さんはどう思われますか。

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