スポンサーリンク
スポンサーリンク

源実朝の死因は? 公暁の暗殺現場での動きから検証してみた鎌倉最大の悲劇

未分類

どうも。しのぶです。

建保7年(1219年)1月27日
鎌倉幕府 第3代将軍 源実朝が暗殺されました。

鎌倉最大の悲劇といわれます。

『吾妻鏡』『愚管抄』『承久記』
これらの記述から実朝 暗殺の
現場検証をしてみましょう。

スポンサーリンク

源実朝の死因と鎌倉時代の太刀

源頼朝の刀 鬼切安綱(髭切)

鎌倉時代は「日本刀の黄金期」
と呼ばれています。


「鎌倉殿の13人」でもあったように
鎌倉時代は、数々の戦がありました。

坂東武士が台頭した時代なので
刀は質実剛健で、鎧も断ち切る威力のある、
実戦重視な姿になっていきました。

また、後鳥羽天皇が日本刀を好み
「御番鍛冶」制をつくって刀工を招聘し
「菊御作」(きくごさく)と呼ばれる
菊花紋を彫った太刀を作らせたりしました。


後鳥羽天皇も、力強い作風の刀を好みました。

以上のことなどから、
鎌倉時代の日本刀は実用性重視で
長く、反りがあり、身幅が広い。


また、切っ先も猪首風と太短く、
全体的に重感がありました。

そんな太刀で殺意をもって
斬りつけられたわけです。

首をとられて持ち去られたと
『吾妻鏡』『愚管抄』『承久記』
いずれも記載があります。

しかし、いかにいきなりの襲撃でも
生きて動いている人の首を
ただ斬ってもっていくことは
できません。

『承久記』では、実朝は
襲撃の一太刀目は「笏」(しゃく)で
しのいだ(防いだ)が


二太刀目で斬られて
絶命したとあります。


「笏」はうすい木製のもの。
重要な儀式や神事において
持つ人の威儀を正すために持ちますが
とても重厚な刀を防げるものでは
ありません。

実朝は、鎌倉時代特有の
殺傷能力の高い刀で
斬りつけられて瀕死の重傷、
もしくは即死。


襲撃した者は、武士のならいとして
討ち取った相手の首級をとった


実朝の死因としては、
そういうことになるでしょうか。

右手に持っているのが笏です

公暁は儀式のすきをついたのか?

実朝は、第2代将軍 頼家の次男、
公暁に暗殺されました。

公暁は、頼家亡き後、北条政子はからいで
鶴岡八幡宮寺別当となっていました。

別当とは、主に大規模な寺において
寺務を統括する長官職。

しかし、18歳で就任したものの
髪を下ろさなかったので周囲の者が
怪しんだという記載が残っています。

公暁は高位の僧職でありながら、
髪を下ろさず、太刀で実朝を襲撃。

鎌倉時代の猪首風の切っ先

公暁は、儀式から退出するため
鶴岡八幡宮の石段を降りていた
実朝を襲撃したとされています。

歩く実朝の下襲ねをふみつけて
転倒させて切りつけたとあります。

下襲ねは、後ろの裾を長く仕立てます。
この裾は、身分が高いほど長くなるので
右大臣に昇進した実朝の下襲は
長くなり、後ろにひきずっていた
と考えられます。

fの部分が下襲

『吾妻鏡』『愚管抄』『承久記』から

警護の武士は、鶴岡八幡宮の外にいた。
襲撃から逃げてきた公卿を見て
異変に気付いてかけつけた。

しかし、すでに実朝は殺され
首をとられた後だったということが
読み取ることができます。

つまり、石段を降りているときは
まだ実朝のそばには
儀式関係者しかおらず
実朝も公卿らも儀式の正装で
丸腰だったということでしょう


警護の武士が誰もおらず、
実朝を守れないすきをついて
公暁の襲撃はやすやすと
成功してしまったわけです。

スポンサーリンク

公暁の「かくれ銀杏」は本当にあったの?

『吾妻鏡』によると、
駆けつけた武士らに公暁が、
石段の上から
「我こそは八幡宮別当阿闍梨公暁なるぞ。
父の敵を討ち取ったり」と叫んだとあります。


『愚管抄』では、
公暁の声は記録されておらず
鳥居の外にいた警護の武士たちは
儀式関係者が逃げてくるまで
襲撃にまったく気づかなかったとあります。

公暁の犯行には黒幕説や
公暁本人の単独説など様々ありますが、

公暁のそれまでの人生を考えると
いきなり第2代将軍だった父を殺され
本人の納得していない出家を強制された
わけですから、殺意がわいてもおかしくない
と考えられますね。

鶴岡八幡宮の石段のそばに
あった銀杏(いちょう)の大木は、
襲撃の際に公暁が実朝を隠れて待ち伏せ
した場所であるとして、
「公暁のかくれ銀杏(いちょう)」
として有名でした。

出典:江戸時代『新編鎌倉志』

かくれ銀杏の話は、
徳川光圀が編纂させた『新編鎌倉志』に
3代将軍源実朝を暗殺した公暁が
暗殺の際に隠れていたという話が載せられ


鶴岡八幡宮の大銀杏が、
「隠れ銀杏」と呼ばれはじめました。

しかし実際には、鎌倉時代には
まだ日本には銀杏の木はなかったとか、
その話は江戸時代の創作であったと
いう説が近年、検証されています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました