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瀬名(徳川家康 正室)は嫁姑問題で最期が決まったのか?謀反説は?

大河ドラマ
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どうも。しのぶです。

【どうする家康】がはじまりますね!

徳川家康の正室といえば、
悪妻とされている築山殿(瀬名)

今川義元の姪といわれる姫です。

織田信長の命により
処刑されることは有名ですが
なぜ処刑されたのでしょう

嫁姑問題で処分されたのか?
武田家との内通(謀反)で処刑
されたのか?

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織田信長の長女『徳姫』と嫁姑問題が?

嫁姑問題はいつの時代にも…

瀬名(築山殿)は徳川家康の
長男・信康を産んでいます。

その信康に嫁いできたのが
「徳姫」

徳姫(とくひめ)は、織田信長の長女です。

信長の側室「吉乃」が産んだ姫と
されています。

永禄10年(1567年)、徳川家と織田家の
同盟のため、家康の息子「信康」と
織田信長の長女「徳姫」は

9歳同士で結婚しました。
同盟のための政略結婚でした。


「徳姫」が5歳の時には、すでに
信長と家康のあいだで信康と徳姫の
結婚は決められていました。

駿河の今川、美濃の斎藤、
尾張の国内、甲斐の武田、と

戦国時代の強敵にかこまれていた
織田家と徳川家。

その2家の同盟である
「清洲同盟」を結ぶことによって


徳川は今川からの独立を
織田は美濃の斎藤という脅威へ対応
尾張の統一へ、

それぞれ勢力を拡大しました。

織田信長と徳川家康にとって
この同盟は非常に重要なものでした。

その重要な同盟の要(かなめ)
ともいえる、織田家から嫁いできた
「徳姫」と


瀬名(築山殿)は嫁姑問題を
起こしてしまうのです。

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息子の側室に『武田家の女性』をすすめた?

女の子が2人産まれて…?!


「徳姫」と「信康」とあだには
天正4年には登久姫、天正5年には熊姫と
女の子が2人、産まれています。

当初の夫婦仲は悪くなかったようです。

しかし、戦国時代の跡継ぎは男子(嫡子)

徳姫の姑である瀬名(築山殿)が、
「跡継ぎができないのは困る」と
信康に側室をむかえさせます。


その側室が、徳川家の宿敵である
武田家の元・家臣の娘などでした。

「徳姫」はこの一件から、
瀬名(築山殿)と信康と不仲になったと
いわれています。

また、家臣の『家忠日記』の中に、
家康がわざわざ
「信康」と「徳姫」の不仲を仲裁するために
2人をたずねてきたことが記されています。

信長までも、尾張から
「信康」「徳姫」に会いに

2人のいる岡崎を訪問したことが
記録に残っています。

清洲同盟は織田家にも徳川家にも大きなメリットが!

家康も信長も、「清洲同盟」が
いかに大事な同盟である

と考えていたかが、

わざわざ「夫婦の仲」を仲裁しようと
2人ともが訪問しているあたり、
考え至ることができます。


群雄割拠の勢力争いで
いつ家が滅亡するかもしれなかった
戦国時代。

いくら跡継ぎ大事とはいえ、
瀬名(築山殿)が
ひきおこした織田家の姫との
嫁姑問題と

同盟関係の基軸となる
「徳姫」と「信康」の不仲問題…

これは大変いただけないものでした。

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『徳姫』の怒りはすさまじかった

織田信長の娘をなめるなよ…!!

「徳姫」と「信康」、
「徳姫」と瀬名(築山殿)の
仲はこじれたまま戻らず、

ついにいくところまで
いってしまいます。

天正7年(1579年)、「徳姫」は
父の織田信長に『十二ヶ条の訴状』を
したためて送ります。


江戸時代の国学者「渡辺 政香」が
編纂した『参河志』には

「徳姫」の『十二ヶ条の訴状』の内容が
書かれています。

『十二ヶ条の訴状』

①築山殿は、私と信康様との仲を裂こうとする。

②築山殿は、女子しか生んでない私を
 「役立たず」と言う。


③築山殿は、男子は側室に生ませようと
 武田家の女を用意した。

④築山殿は、浮気相手の医者を通して

 武田家と内通している。

⑤武田勝頼は、信康様を味方にし

 徳川を滅亡させて信康を領主とする計画だ。

⑥信康様は気性が荒く、私の侍女を目の前で
 「おしゃべりな女だ」と言って殺し、

  口を裂いた。

⑦信康様は、領内の盆踊りにおいて
 服装の貧相な者や、踊りの下手な領民を
 弓矢で射殺し「殺した者は敵の間者だった」と
 言いわけした。


⑧信康様は、鷹狩りに出かけた際に
 獲物が少なかったのを道で出会った僧のせいにし、
 その僧の首と馬を縄で繋ぎ、馬を走らせて殺した。

⑨武田勝頼は、信康様を裏切らせて味方にすると
 計画しているので織田家も油断しないように。

⑩築山殿は、金使いが荒く、贅沢三昧な暮らしだ。

⑪築山殿は、武田勝頼に
「織田信長と徳川家康を殺して欲しい」と頼んだ。


⑫近頃、岡崎城下でおかなしな踊りが流行し
 風紀が乱れているのは、城主の信康様が
 暗愚だからだ。

※もとの手紙が残っていないため
 江戸時代の国学者「渡辺 政香」が
 編纂した『参河志』は加筆、編集の
 可能性も指摘されています。

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この訴状を読んだ信長は、

この書状を持参した
家康の使者である「酒井忠次」に

真偽をたずねたところ
忠次が否定しなかったため
「信康の殺害」を命じたとされます。


信長は、瀬名(築山殿)には
具体的に言及しておらず、

瀬名(築山殿)の処分は
家康の判断である説が一般的です。

家康の家臣に殺されてしまう瀬名


瀬名(築山殿)は、8月29日に
岡崎城から出され、

輿に乗って移動の途上で
家臣に自害を迫られたうえ、
殺害されます。

「信康」は、9月15日に幽閉先の
二俣城で切腹しました。

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浮気や武田家との内通(謀反)は本当だった?

さて『徳姫の十二ヶ条』の

瀬名(築山殿)と医師の減敬
(唐の人だった)は
本当に浮気の関係だったのか?


また、本当にこの減敬をとおして
瀬名(築山殿)が
武田家に内通していたのでしょうか?


後世の研究では、
瀬名(築山殿)に浮気の事実は
具体的には確認されておらず、


武田家と内通して徳川家を
どうこうできるような立場にも
なかったのではないか、と
いわれています。


瀬名(築山殿)については
徳川幕府の成立後、
編纂された資料において

徳川幕府の立場から見て、
主に「悪女」として書かれたと
みられています。

八代将軍 徳川吉宗の時代に
編纂された『武徳編年集成』には、

【偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し】
(偏執で、邪推ばかりで嫉妬深い)

と瀬名(築山殿)を評しています。

ひどい言われようです。

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「今川の姫」より「織田の姫」をとった家康

【いとどわづらはしく、
 おぞましさにおもひ給ひしなるべし】

家康が瀬名(築山殿)について
手紙に残している言葉です。

瀬名(築山殿)にすれば、
「家康が今川家を裏切って独立し
 織田家と同盟を結んだ」
 
「私の父が、その責任をとらされ
 詰め腹を切らされた
 (切腹した)」

ということで、家康を恨んでいた
可能性はあります。

家康は家康で、
今川義元の姪の姫である
瀬名(築山殿)を
うとましく思うようになっていました。


今川家から独立し、
織田家とむすんで
勢力を拡大していくときに

今川義元の姪はむしろ邪魔であり、
長男(嫡男)の信康のデキも悪い。

またその2人が、織田家との
同盟の重要性を考えることなく、

織田信長の長女である
「徳姫」と不仲問題をおこす。

今川義元の姪と、
織田信長の長女の
どちらをとるかとなったとき、

家康が選んだのは
「織田信長の長女」でした。

悲しい話ですが、戦国時代では
このようなことは当たり前。

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まとめ

瀬名(築山殿)は
嫁姑問題が発端で、非業の最期を
とげることになりましたが、

問題の根幹は、今川家と
織田家にたいする
家康の関係の変化にあり

瀬名がそれを理不尽として
受け入れることができなかった
ことが原因といえるでしょう。

唐人医師との浮気や
武田家との内通説は、

実際には証拠とよべるような
記録は残っていません。

徳川幕府の成立後、
幕府の編纂する資料で
徳川家の都合で

ことごとく「悪女」と記載される
ようになってしまったのが
実際のところのようです。

かわいそうなお姫様、
といったところですが
【どうする家康】では

どのように描かれていくのか
楽しみです。

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