どうも。しのぶです。
承久の乱のあと、
後鳥羽上皇は鎌倉幕府の命で
「隠岐の島」(島根県)に
『島流し』となります。
※流刑(るけい)配流(はいる)
とも言う。

島流しは、「流刑」でも
もっとも重罪です
後鳥羽上皇の「島流し」
【食べ物】や【暮らしぶり】は
どんなものだったのでしょうか?
離島への「流罪」は死刑に次ぐ重罪

島流しは、
日本では『古事記』の時代から
存在していた刑罰です。
流刑は、都から遠く離れた
不便なわびしい地方へ
罪人を追放することで
罪人の影響力をなくし
孤立させ生きる気力を失わせる
のが目的です。
主に、身分の高い人の刑罰として
「大宝律令」でも定められていた
正式なものです。
基本的には、「赦免」がなければ
戻ってこれない「終身刑」
なかでも、隠岐や佐渡など
「離島」への島流しは
四国や東北への配流より
重い罪である証で
死刑に次ぐ重罪とされていました。
※流刑地は、伊豆、四国など
都から見た「地方」に
複数ありました。

もっとも古い流刑の記録は
『古事記』の
「衣通姫伝説」です。
軽大娘皇女は大変美しい女性で
その美しさが衣を通すといわれ
「衣通姫」と呼ばれましたが、
兄である木梨軽皇子とデキてしまい
木梨軽皇子は政治的に失脚
軽大娘皇女は伊予国(愛媛県)へ
流刑となりました。

後鳥羽上皇は、隠岐の島のどこで生活した?

後鳥羽上皇は、隠岐の島のどこで
生活されていたのでしょうか?
記録では、隠岐の島「源福寺」が
行在所だったとのことです。
いまは隠岐神社があり、
場所は、島根県隠岐郡の
海土町(あまとちょう)
隠岐諸島の「島前」の部分です。
隠岐の島は本州からは
高速船で約1時間、
フェリーで約2時間半かかります。
鎌倉時代の帆掛け船で
日本海を進めば
さらに膨大な時間が必要だった
ことでしょう。

『隠岐神社由緒書』
流刑から19年後の延応元年(1239年)
2月22日に崩御して
25日に源福寺裏山で火葬にされ
遺灰を埋納して火葬塚が建立された

1940年(昭和15年)島根県の
「紀元二千六百年記念行事」として
【隠岐神社】が創建されます。
後鳥羽上皇が祀られており
鎮座地は、
後鳥羽天皇の隠岐の御陵
「御火葬塚」に隣接する場所です。
隠岐神社にいけば、
19年間 後鳥羽上皇が生活されていた
場所の空気を感じることができます。

※隠岐神社が完成した1939年は、
後鳥羽上皇の崩御から
700年目に執り行われた
「後鳥羽天皇七百年祭」の年でした。
毎日どんな生活を送っていたの?

鎌倉時代の身分の高い人
(後鳥羽上皇や後醍醐天皇)
の流罪と
江戸時代の罪人の流罪は
内容がちがいます。
ここでは後鳥羽上皇や
後醍醐天皇の隠岐の島での
生活を見てみたいと思います。
鎌倉幕府配下の隠岐国
海士郡の公文(くもん)村上氏が
身辺警護と監視にあたっていたと
いわれています。
なお、公文(くもん)とは
公文書を取り扱う官吏、役職を
さす言葉です。
この村上氏が『世話役』でも
あります。
鎌倉殿の13人でいうと
流罪の源頼朝の世話をしていた
伊東氏と北条氏のようなものです。
逃げられないように監視する
とともに衣食住を整える役目も
兼ねています。

さらに、高位の人が流罪の場合、
必要最低限の身の回りの世話
をする者がつけられます。
つまり、日々の暮らしでは
【必要最低限の付き人と
監視された生活】を
送っていたことがわかります。
しかし、完全に部屋に幽閉された
ような生活ではないことが
様々な記録からうかがえます。
たとえば、後鳥羽上皇は
『天性の歌人』でもありますので
隠岐の島でもたくさんの
和歌を詠んでいます。
『隠岐本 新古今和歌集』
(おきぼんこきんわかしゅう)
『遠島御百首』
(えんとうおんひゃくしゅ)
後鳥羽上皇が
隠岐の島で読んだ和歌集が
現代まで伝わって、残されています。

隠岐の「荒い波」を歌に詠みこんだり
隠岐の「港に出入りする船」を見て
詠んだ歌などがあります。
隠岐の四季折々の景色のうつろいも
歌に詠まれています。

【日本最古の「牛突き」は後鳥羽上皇のため】
Oki.net一般社団法人隠岐ジオパーク推進機構
承久の乱で隠岐にご配流になられた
後鳥羽上皇が
角をからませて遊んでいる牛たちを
ご覧になったところ
大変、喜ばれました。
その様子を見た島の人々が、
失意の上皇をなぐさめるために
「牛突き」がはじまりました。
日本最古の800年の歴史があります。
このように、後鳥羽上皇は
隠岐の島では監視つきながら
島の人々の生活を見て
交流する程度の
自由さはあったようです。
後鳥羽上皇は隠岐の島で何を食べていた?

さて、隠岐の島で
後鳥羽上皇が何を食べていたか?
ですが
まず、後鳥羽上皇の配流先に
隠岐の島が選ばれた理由から
ひも解くことができます。
【隠岐の島が選ばれる理由】
流罪となった高貴の人が
飢える心配が少ない
隠岐島は海にかこまれており
海産物が豊富にとれる
作物(米など)がよくできる
山の幸も豊か
隠岐は、食に関して豊かな
土地だったのです。

海では一年を通して
イカ、魚が獲れるそうです。
海藻をつかった
郷土料理も伝わっています。
稲作もおこなわれています。
山では、ふき、セリ、わらび
ゼンマイ、山椒などがとれます。
後鳥羽上皇も、
その後に鎌倉幕府から
隠岐の島に配流になった
後醍醐天皇も
このような島のものを召し上がって
いたと考えられます。

お食事のメニューはどんなもの?

鎌倉時代は、貴人も武士も庶民も
食事は1日2回でした。
武士や庶民の主食として、
「玄米」「強飯」を食べてました。
天皇や公卿は、すでに鎌倉時代は
白米を食べていました。

当時の文献をひもとくと、
都の貴族の食事は、地理的に
新鮮な魚や肉が手に入りにくく
干した肉や塩魚など
「保存食」が多かったようです。
調味料は「ひしお」と呼ばれる醤油と、
味噌,塩くらいでした。
貴族なのに、あまり体に良い食事では
ないようですね。

鎌倉時代は、武士のほうが
健康面だけで言うと
地場の野菜や獣肉など
健全な食生活をしています。
しかし後鳥羽上皇は、隠岐では
島でとれた魚や山菜、穀物を
食することができたと思われます。
食材の内容だけみれば、
都の食事より健康的なものに
なっていたかもしれません。

隠岐に【島流し】になった
後鳥羽上皇の生活をみてみました。
観光として訪れるにも
隠岐の島は現代でも遠いようですが
行ってみたい方は
チャレンジされるのもいいかもしれません。
隠岐神社には、
海土町後鳥羽上皇資料館があり
後鳥羽上皇ゆかりの品々を
見ることができます。


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